こんにちは。チョコです!
アメリカ本土を攻撃し、見事に成功
したとされた日本人の藤田信雄さん。
日本ではあまり語り継がれていま
せんが、アメリカでは有名人なんだ
そうです。
今の私達には想像できない過酷な
時代に藤田さんはどんな思いだった
のでしょう。支えてきたご家族の
現在なども気になったので、調べて
みました。
<目次>
- 藤田信雄のプロフィール
- 政府から呼び出しを受けた理由は?
- ブルッキングス市との交流は?
- 贈った刀はいまどこに?
- 妻と娘(浅倉順子)について
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藤田信雄のプロフィール
1911年10月に生まれ、1932年に
日本帝国海軍に入隊し、1933年に
パイロットになります。
出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%9B%84
1942年に軍令部に呼び出され、
単独によるオレゴン山中への空爆
命令が告げられます。上官より、
木を1本折っただけだとお叱りを
受け、見た感じ失敗に終わったが、
後に唯一、アメリカ本土を攻撃した
日本人として称賛されます。
戦後は地元に戻り、工場勤務を
します。出身は茨城県土浦市だった
ようですね。
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政府から呼び出しを受けた理由は?
工場勤めの中、ゆっくりと生活
していた藤田さんのもとに政府から
呼び出しを受けます。この時代に
政府からの呼び出しは辛いものが
あったでしょうね。
池田勇人首相と大平正芳内閣官房
長官に面会し、アメリカ政府が藤田
さんを探していると告げられます。
藤田さんは爆撃した経験から、何か
処罰を受けるのだと思い、自決用に
代々伝わる刀を忍ばせて出向いた
そうです。
どころがブルッキングス市かつての
英雄として、フェスティバルの主賓と
して藤田さんを招いたのだそうです。
過酷な戦争時代にこんなに温かい
エピソードもあったんですね。
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ブルッキングス市との交流は?
ブルッキングス市と素敵な関係に
なった藤田さんは、3人の女子学生
を日本に招待したそうです。
ブルッキングス・ハーバー高校の
生徒が日本に滞在している際、
藤田さんはロナルド・レーガン
大統領の補佐官より、お礼を述べ
られたそうです。
この女子学生を呼ぶ費用は、藤田さん
が生活をやりくりし、招待したそうです。
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贈った刀はいまどこに?
最初にブルッキングス市に呼ばれた時に
持っていった刀は、勘違いしていた
自分を恥じ、プレゼントしてきた
そうです。その刀は、今どこにあるの
でしょうか?
ブルッキングス市庁舎から新しい図書館
に設けられた「藤田コーナー」の陳列
ケースの中に移動して、そこで保管され
ているそうです。
戦争で日本人が称賛されたことがある
証拠ですよね。
妻・娘・息子の情報は次のページへ!