藤圭子の壮絶な人生の中で歌い続けた歌とは?娘の宇多田ヒカルが語る母の自殺とは?

みなさん、こんにちは。チョコです!

「金曜日のスマイルたちへ」で、

宇多田ヒカルさんのお母様の

藤圭子さんがVTRで名曲とともに

蘇りました。

藤圭子さんが自殺をして4年。

どんな名曲を歌っていたか、

大作詞家・阿久津裕さんの

作品と共に取り上げてみます。

藤圭子さんの人生と共に

名曲を思い出してみましょう。

「藤圭子」の画像検索結果

出典:http://201sparrows.cocolog-nifty.com/blog/2016/05/post-fcf5.html

<目次>

  1. 藤圭子の人生
  2. 藤圭子からみる娘・宇多田ヒカルとは
  3. 藤圭子の名曲
  4. 藤圭子が自殺に至るまで
  5. まとめ

藤圭子の人生

1951年生まれで、本名は宇多田純子

さんです。両親の門付について回り、

貧乏生活を支えるために、高校進学

を諦めます。両親と一緒に回りながら、

17歳の時に歌謡大会のステージで

歌ったことが、レコード会社の

関係者の目にとまり、1969年に

「新宿の女」でデビューします。

1971年に前川清と結婚するが、

1972年に離婚します。1974年

には、喉のポリープの手術後、

以前のように歌えなくなり、引退を

考え始めます。

1982年、宇多田昭實さんと結婚。

翌年に宇多田ヒカルさんを出産

します。

1984年に芸能界を復活します。

2000年には、宇多田ヒカルの

コンサートに飛び入り参加し、

「圭子の夢は夜ひらく」を歌います。

この頃は、少し落ち着いていたの

でしょうか。宇多田ヒカルさんも

元気なお母様の姿がうれしかった

でしょう。

2013年に死亡。夫の宇多田昭實

さんも宇多田ヒカルさんも後悔の

念を語っていました。

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藤圭子からみる娘・宇多田ヒカルとは

2003年にニューヨークに渡る

ときに、前川清さんに一度だけ

電話があって、「うちの子は

天才だ・・」と言ったと言います。

まだ、幼かった宇多田ヒカルさん

のことで、後にテレビで見た時に

前川清さんはビックリしたそうです。

声も若い頃の藤圭子さんに段々似て

きているようで、藤圭子さんの

一部が宇多田ヒカルさんを作りあげて

いるのですね。

宇多田昭實さんも娘の成長に必死に

なったことでしょう。

藤圭子の名曲

1969年:新宿の女

1970年:女のブルース

圭子の夢は夜ひらく

命預けます

女は恋に生きていく

1971年:さいはての女

恋仁義

みちのく小唄

1972年:京都から博多まで

別れの旅

※阿久津裕さん作詞の歌です

その他、全部で50曲ほどあります。

様々な賞を受賞するほどの歌唱力の

持ち主でした。

藤圭子が自殺に至るまで

別居中であったとはいえ、藤圭子

さんが最後まで頼っていたのが、

宇多田昭實さんでした。

感情がコントロールできなくなって

からも、できる限りのフォローをし、

病院での受診も促していたようです。

藤圭子さんは、子供時代に父親の

母親に対するDVで悩んでおり、

そんな経緯から、具合が悪くなって

からは、家族でさえも信じられな

かったようです。

宇多田ヒカルさんも自分にできる

ことを最後まで考えていたが、

結局何もできなかったと後悔の

念を綴っています。

特に浪費がひどく、家計を食い

潰すようになってからは、家族と

疎遠になっていただけに、残され

た家族にとっては、かなりつらい

結果となってしまったでしょう。

まとめ

天才だと思われて、芸能界入りした

当時は、宇多田ヒカルさんが華やかな

デビューをしたのと同じくらいの

輝かしさがあったのでしょう。

激しい人生の中で、娘のステージで

一緒に歌えた瞬間は、何よりも

幸せな時間だったことでしょう。

これからも受け継がれていく歌声を

ゆっくり聞いてみたくなりませんか。

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